アクタージュ 覚書その13 (阿佐ヶ谷芸術高校映像科へようこそ 2017WJ9 前半) バレ

ストキン準PRO 受賞作

表紙絵  制服姿の主人公柊雪を真ん中に 

その周囲 黒山墨字 

柊の同級生その1 市子(羅刹女甲パートあの人です)

柊の同級生その2 山田

 

★柊の部屋

5歳ぐらいの柊が11時半ぐらいに一人DVDで映画を観ている。

そこへ、男連れで帰ってきた母は柊がまだ起きているのにうろたえる。

借りてきた映画を観て、部屋にいるように言う。

一人になった柊の独白

「私には映画しかなかった」

 

★十年後 阿佐ヶ谷芸術高校入学式

未来の映像作家を作る映像専門の高校という校長の挨拶に戸惑いを感じる15歳になった柊。

 

★1-A 教室

教師の黒山墨字(30)が新入生を前に怪気炎。

スマホ一つで誰でも映画を取れ、クリエイターになれる「大映像作家時代」に

こんな学校に何しに来たと生徒達を挑発する。

本当に映画が撮りたいのか、あいまいな気持ちの柊は気圧されるばかり。

傍若無人に振舞う黒山は、「何しに来た」と山田に問う。

映画監督になって、スターウォーズのような映画を撮りたいという答えにそれはもうルーカスが撮っているとダメ出し。

続いて、同じ質問をされた柊。

「昔から映画が好きで・・・」と言いかけ、問題外とそっぽを向きかけた黒山は続く言葉に

向き直る。

「そしたら、世界って何だろう。自分って何だろう。と気になっちゃって・・・」

「変ですよね。すみません。」という柊に、黒山は自分の価値観を他人の物差しで測って,謝るなという。

その言葉になぜか嬉しさを覚えた柊は思わず「弟子にしてください。監督。」と頼み込んでいた。

 

★1-A 休み時間

口走ってしまった弟子入り宣言に落ち込む柊。

自分の映画を観たこともないのにバカにするなと黒山に叱責を食らっていた。

そんな柊に話しかける市子と山田。

市子は去年朝ドラにでていた朝野いちごで、撮られていると撮る方にも興味が湧くという。

山田は編集ソフトを使いこなし、SF映画オタク。

この3人で班を作って映画を撮るが、まずは各々、明日までにシナリオを書いて来いというのが

黒山の指示だった。

 

★高校からの帰り道

「私が撮りたいもの」が分からない柊は、シナリオが思い浮かばず、自分には何もないんだと思い悩む。

映像科へ行けば、空っぽな自分が変われると思ったのは浅はかだったと。転校さえ頭をよぎった柊はぼんやりして人にぶつかってしまう。

それはなんと黒山だった。

ヘドモド謝罪する柊に、黒山は自分の映画を観ろと誘う。

そこは、阿佐ヶ谷のミニシアターユギクの前だった。

 

★「真夏の雪」

一人の女性の日常を恋人の視点から描いた盛り上がりもない静かな映画。

ただ、その女性は確かに生きていて、”本物”だったと感じた柊は「これは自分の物語」と

涙を流す。

 

上映後に登壇した黒山。海外の映画祭で多くの受賞を果たしているとのことだった。

しかし、テーマもストーリーも見えない意味不明だと厳しい質問が飛ぶ。

 

対する黒山。

人は一人じゃないから、誰か(観客)に媚びる必要はない。共感はさせるものではなくあるものだと言い返す。

万人に向けたものではなくても自分と似た感性のものには必ず届く。

共感や理解を求めて自分を誤魔化し始めると人生(映画監督)に意味はなくなると。

 

それを聞いた柊は、誰の言葉にも囚われない。自由を知っている黒山は、だから、映画監督なのだと感じる。そして、「私とは違う」と・・・

 

 

*ここで、いったん切りますか。

柊が夜凪とよく似た少女時代を過ごしていたというのが一つポイントでしょうか。

映画しかない者の幸福という大テーマは共通しています。

ただ、クリエイターとして映画監督と俳優の違いがあるようで、そこが興味深いところです。

自分は表現すべきものがない空っぽだというこの当時の柊の感覚は、自分の中に100メートルも潜ってしまう夜凪は直面していない感覚という気がします。もちろん、役作りの上で自分の中のケイコやカムパネルラや羅刹女を探すという作業はあるのですが・・・

他人の言葉に囚われない自由さというのも夜凪はそもそも持っている気がします。だから、天才ということなのかもしれません。突っ込んで、考えてみると、夜凪は父親の全てを自分の作品の糧にするという芸術家の傲慢なまでの感覚をどこかで受け継いでいるのかもしれません。

 

もう一つのポイントは黒山の変化ですね。

5年前の黒山はとても尖っていて、万人向けの映画をむしろ敵視さえしています。しかし、5年後、夜凪に「田舎のジジィやババァ」にも知られていいる役者になってくれと語っています。

世界を知り、「撮りたい」映画ではなく「撮らなければいけない」映画が見えてきたとも。

黒山がクリエイターとして本質的に描きたいものは変わっていないのでしょうが、自分と感性が違う万人をも共感させる何らかの必要性なり、使命なりを意識しているのが5年後の黒山という気がします。

その黒山墨字の映画を撮りながら、万人を「共感」させるために、必要なのが星アリサの再来である夜凪景ということでしょうか。

 

次は後半を振り返ってみたいと思います。